祖母は僕の彼女をみて「どこんしょだっけっかなぁ?」と笑った。彼女と顔を合わせるのは2度目で、1度目は1年ほど前だったが全く忘れてしまっていることが少し意外だった。


僕は小さな村で生まれ育った。そこは祖母の生まれ故郷でもある。しかし、15年ほど前に両親は村から離れた市街へと引っ越した。その際、祖母は頑なに村に残ることを主張し、父は70半ばの祖母をひとり残すことを気に病みながらも、その気持ちを尊重した。僕は東京で離れて暮らしていたので後に聞く話も多かったが、祖母は少しずつ変わっていった。


いま思えば、長い間続けてきた内職ができなくなったことがはじまりだったという。納品したものに失敗が目立つようになってきた。小さな村なので内職仕事を仕切っている近所のおばさんは父に相談した。「近頃失敗が多くて、何度か注意したがなおらないしどうしたものか困っている。今までこんなことなかったのに」と。父は歳のせいもあるだろうし、昨年転倒し腕を骨折していたので、そのせいもあるのだろうと思ったらしい。迷惑をかけられないし内職の仕事を断った。父はプライドの高い祖母が傷つかないように「最近は不況で内職も少なくなったらしい」と嘘をついた。

一人暮らしで内職もなくなり、家事が好きだとはいえなかった祖母。暇を持て余し、食事も不規則になっていったのだろう。父は毎日顔を出したが生活の全てをみられるわけではない。やがて、大好きだった畑仕事もうまくできなくなってしまったが、両親はやはり歳のせいだと思っていたようだ。

母が祖母の言動がおかしいと意識したのは、バンドエイドを服の上から貼っていたのをみたことだった。聞くと「ちょっと肘が痛むから」ということだったらしい。しかし、祖母はそんなことをしそうな人だった。天然というかなんというか。だから母もそこまで深刻には考えなかった。


そんなふうに少しづつ少しづつ脳は破壊されてゆく。


冬になるとあの村には4、5メートルの雪が積もる。高齢者の一人暮らしは危険なので、冬の間は両親の家に移って生活していた。ある年の冬。祖母は玄関の階段で転倒し顔に怪我をした。が、翌日には転んだことを忘れていた。それをきっかけに強制的に同居することになった。

その後、もの忘れ外来で検査を受けアルツハイマー型認知症と診断された。母から電話をもらったときの衝撃を今でも覚えている。僕はすぐにネットや図書館で認知症について調べ、それを資料にまとめ両親に送った。両親は僕の心配とはよそに楽観的だった。


祖母は週3回デイに通いはじめた。僕はちょくちょく電話したり、祖母が喜びそうなプレゼントや花を贈ったり、少しでも進行を遅らせることはできないかとあれやこれや考え、それを母に話したりした。(しかし、母が欲しかったのは助言ではなく、愚痴ることのできる相手なのだと僕が気付くのにしばらく時間がかかった。)祖母との電話も会話すること自体ままならなくなり、やがて僕のことも忘れていった。

祖母は昼夜逆転の生活がはじまり、徘徊や弄便、介護拒否、食欲低下などの症状が現れ、終わりのない世話に、母は身も心も疲れてしまっていた。父は介護をすることなく、そのことについて何度か喧嘩したこともあったが、離れて暮らしている僕が言えることなんて本当はなにもなかった。

その頃から母とはよく話をするようになる。祖母との昔話もよく聞いた。いわゆる典型的な嫁姑関係でとても苦労したようだ。祖母は母に「私が寝たきりになっても息子も娘もいるから他人のあんたなんかの世話にはならない」とよく言っていたらしい。

でも実際には母だけが世話をしている。

誰が悪いとか何がいけないとかそういうことではなく、ただこうなったのだ。


いま祖母は要介護5。寝たきりで全介助が必要だ。意思の疎通は難しいが、それでも感情は残っていて笑ったり怒ったりする。

僕が子供の頃にみていた祖母はどこにいってしまったのだろう。何キロもある山菜を担いでは山々を歩いて回り、僕は必死であとを追いかけた。山菜の名前を教えてくれて、自分で採った山菜を料理して食べたりした。一緒に笑い合ったあの日々を、祖母はすべて忘れてしまった。


だけども 


父は春になると忙しい合間を縫って山菜を採り、東京に送ってくれる。帰郷した際には母が山菜料理をもてなしてくれる。それは僕が山菜好きだからに他ならない。こうして山菜好きな僕が存在するという事実は、祖母と過ごした日々が幻ではなかったのだと決定付けてくれる。

いま目の前で眠っている祖母が、記憶の一部となり、僕の中で僕になってゆく。