僕が29才の頃、30才になるのがたまらなく嫌だった。まだなにも成し遂げていないどころか向かう先すらわからず、毎日に現実味はなかった。音楽家を夢見て上京し、早々に挫折した後、あれやこれやとやりたいことを変えては〝自分探し〟と銘打って現実から目を背けていた。逃げていることを見ないふりをして、己に都合のよい解釈のみを信じようと必死だった。そんなとき、僕は肺を患った。


寝不足が続くと少し背中のあたりにピシッと痛みが走るようになった。でも痛みは数分で消え、それに比例して僕の不安も消えた。

ある日、いつものように煙草を吸っていると今までとはあきらかに種類の異なる激痛が胸のあたりを襲う。煙草を吸うのをやめ、しばらくすると痛みはおさまった。嫌な予感を頭の隅に押し退け「近ごろ忙しかったからな」と思うことにした。煙草の本数を減らしてみたが、その2日後、また激痛。心臓のあたりからカチカチと音がする。時計の針が動いてるような音。これはいよいよまともじゃないぞと、重い腰をあげて病院で診てもらうことにした。


診断結果は自然気胸だった。


簡単にいえば、肺に穴があき空気が漏れて肺が萎んてしまう病気。根本的な解決方法は手術しかない。脇腹から管を通して空気を抜く治療もあるし、安静にしていれば大抵は1週間ほどで治ってしまうのだけど、かなりの確率で再発する。今回は1回目ということで自宅療養で様子をみることにした。10日ほどで発病前のように生活できるようになった。


それから年間3、4回ほど2、3日歩けなくなる程度の気胸を再発する。手術が嫌だったので病院に行かずに自然治癒することにしていた。そうなるとなにをするにも制約が生まれ、臆病になってしまう。煙草はもちろんやめた。

動くこと自体に自信がなくなり、寝不足も天敵なので遊びにも消極的になった。それでもどうしても時間が足りなくなる時もある。頑張りたいのに体の都合で頑張れないということがどれほど惨めなものか思い知らされた。自分の体が憎らしかった。

そして30才のある日曜日、いままでとは比べものにならないほどの痛みが上半身全体を襲う。タクシーで家になんとか辿り着いたのはいいが横になるどころか、どんな態勢でもしんどい。外傷の痛みとは違い、内臓がビリビリと引き裂かれているようだった。座ったまま痛みが引くのを待つ。冷や汗がタラタラと流れてゆく。外は小春日和で柔らかな陽射しが部屋に差し込む。彼女や母親の顔が何度も浮かんできたことを覚えている。やがで陽射しは夕焼け色に変わり、薄暗くなってゆく。

ようやく激痛と耐えうる痛みの波が生まれ少しだけ楽になった。その状態で朝を迎え、病院に向かった。


レントゲンを撮ると左自然気胸で大量に出血していたことがわかった。看護師さんは「痛かったでしょー?」と明るく言った。そのまま入院して空気と血液を吸い出すことに。そして穴が塞がり肺が膨らんだら精密検査をして手術とのこと。2週間脇腹から管を通して過ごし、肺が膨らんだとこを確認してからをCTを撮った。両肺とも肺胞が嚢胞化したもの(細胞が薄くなっている部分)が無数にあった。両肺手術するのが好ましいが、まずは頻繁に空いてしまう左肺から。12センチほど開胸して嚢胞を切除する手術をおこなうことになった。


6月上旬、4時間強、肺の3分の1を切除する手術が終わった。


病室のベッドで目覚めると彼女が椅子に座ってこちらを見ていた。僕は「どんな感じ?」と尋ねたら、彼女は「病人みたい」と笑った。その日は眠くてひたすら寝続けた。夜熱が出たけど翌日には下がり個室から大部屋へ移った。3日目から体のあちこちにつけられた管が徐々に外されていき術後の痛みも和らいでいった。

入院中はなんとなく外部との接触を絶っていた。ほとんど空を眺めて過ごした。白眼の部分が真っ白になってびっくりした。彼女は仕事の合間を縫っては甘いものを差し入れに来てくれた。退院前日に両親が新潟からお見舞いに来てくれた。そうして入院生活は終わった。

退院した日の帰り道、キラキラ光る街路樹の木洩れ陽を見上げながら、ゆっくりと歩いた。家までの数百メートルを歩ききれるか心配だったけど、歩けた。

左胸部はそれから半年間ほど麻痺したままだった。手術しても再発の可能性はあると担当医は言っていた。その言葉通り何度か再発している。でも癒着が起こったせいか症状はとても軽い。


病気は、逃げの姿勢だった僕に逃げ場はないのだということを気づかせてくれた。

毎日はもっとよくなるという都合のいい幻想を破壊し、現実と向き合う覚悟を決めさせてくれたのだと思う。

この不完全な世界こそが僕の全てなのだと。