上京してはじめて付き合った人とは半年経たずに別れることになった。メールのやり取りの中で僕からなんとなく別れを告げた。そのまま連絡がなくなり、数日が過ぎた。〝もう終わったのかな〟と思っていた頃に「いま駅まで来てるから会って欲しい」という電話がきた。


その子は僕が以前薦めたジャケットを着てやってきた。当時は「あたしの好みじゃない」と頑なに拒んでいたジャケットだ。僕は〝もう遅すぎるよ〟と心の中で呟いた。


駅ビルのドトールに入り席に着くや否や「どうして別れたいの?」とその子は尋ねてきた。僕は「気持ちがなくなったから」と答えた。それに対し「どうして?」と尋ねられ、返すべき言葉が見つからなかった。それが全てだったから。


1時間ほど話をしたあと店を出た。駅の改札前で最後にその子は「わたしが電話しなかったらこのまま終りにするつもりだったの?」と真っ赤になった目で尋ねた。僕は「そんなことない」と答えたが、きっとそのつもりだったと思う。僕は情けない気持ちで胸が苦しくなったけど、涙がこぼれることはなかった。

 

 

 

僕が小学生の頃、村の子供たちは生活センターに集まって遊ぶことが多かった。


缶蹴りや、かくれんぼ、かごめかごめをよくやっていた記憶がある。他にも非常階段に秘密基地をつくったり、コックリさんや、プロレスごっこをしたり、独自のゲームを編み出したりもしていた。


はじめはみんなで和気藹々と遊んでいるのだけど、次第に僕はわがままを言い出す。年上が多かったおかげで比較的好き放題にさせてもらえる環境にあって、しばらくは何事もなく過ごせる。だけども子供は子供、我慢の限界がきて喧嘩になる。悪いのは僕だから当然仲間外れにされ、最終的には親の元に泣きつくはめになる。


大人たちはみんなが僕をいじめたのだと子供たちを叱りにいく。だけどみんなは「だってタカヒロが悪いんだよお」と声を揃える。

事情を聞き終わると大人たちは僕をたしなめた。僕は〝二度とこいつらと遊ぶものか〟と憤慨するが、1時間もすると寂しくなり、やがてそろりそろりと皆の元へ戻ってゆく。その繰り返し。


僕のなかに疎外感が芽生えた場所。いつだって原因は僕自身にあった。

 

 

 

あれはまだ祖母がひとりで東京にやってこれた頃。1ヶ月ほど千葉に泊まりにやってきた。父は〝恐らく最後になるだろう〟と、心配ではあったものの祖母を千葉へと送り出したのだった。

ある日、僕は、祖母に会うために親戚の住む団地へと向かった。遊びにいくと相変わらずの祖母がいた。やたらと食べ物を買い与えようと余計なものまでたくさん買い込んでは、僕が食べきれないと「男のくせに情けない」と呆れた顔をし、僕が不機嫌になろうとお構いなしでケラケラ笑うような祖母だった。


その日は天気も良かったので「散歩にでもいくか」と祖母を誘った。ぐるりと回ると2キロほどありそうな大きな池があり、そこをプラプラと歩いた。山菜採りで鍛えた足は未だ健在で、祖母の足取りは軽やかだった。池を3分の1くらい進むと祖母の口数もだいぶ少なくなった。僕は「どうする?疲れた?戻ろうか?」と尋ねた。祖母は数秒「んー」と考えて意を決したように「行ってみるか!」と明るい声を出した。残り500mくらいになると祖母の足取りはかなり重くなった。僕が「疲れた?」と尋ねても明らかに疲れているのに「疲れてない」と歩き続けた。〝素直じゃないなあ〟と少しばかりうんざりして、優しい孫とはかけ離れた態度をとる僕がいた。


その後、祖母は認知症になる。ゆったりと2人きりで過ごしたのはあれが最後だった。


あの時、どうして祖母との時間を楽しむことができなかったのだろうか。どうしてもっと優しくできなかったのだろうか。

 

 

 

似たもの同士で正反対のふたり。意思の疎通が神がかっているときもあれば、永遠と話が噛み合わないときもある。


いまでこそ、そんな時でも笑いあう術を見出した僕らだけど、付き合いたての頃は些細なことで喧嘩し不穏な空気になることもあった。僕はなんの気もない話題をなんとなく話す癖がある。それは間を埋めるためのもので意味などなく「そうなんだあ」と流してくれればいいのだけど、彼女は必ず「そうかなあ」と否定的な返しをしてきた。僕はなんてことない顔をしていたはずだけど〝めんどくさいなあ〟と内心は穏やかではなかった。


ある日、マックで彼女が出演する舞台のDM作りを手伝っていた時もそんなふうだった。僕は怒って席を外した。しばらくしてから席に戻ると彼女は謝ってきたけども、僕が何に腹を立てているのかわからないといった様子だった。ただ、彼女が折れたというだけだった。


一方的に仕掛けたどちらが優位に立つかの陣地争いに勝ち、滑稽なほどご満悦の僕の薄ら笑いをいまも思い出す。

 

 

 

中学生の頃、僕は兄の影響でギターをはじめた。


手先が不器用な僕はいつまでたってもギターがうまくならなかった。だけど、それでも少しづつコードを押さえられるようになり、真夜中、家族の迷惑も考えず大声で歌っていたものだった。

1年もすると大学ノートに書きためていた詩に曲をつけるようになる。はじめて僕の歌が生まれたときの快感と興奮は、頭の悪い少年がポップスターになることを夢見てしまうくらいの破壊力は十分にあった。それはとてもありがちな、漠然とした根拠なき自信からくる、まさに夢だった。才能は皆無に等しかった。


高校生になると小さな町にいる数少ない音楽仲間とバンドを組んだ。放課後になると毎日友人宅のガレージで練習に明け暮れた。元来、メランコリックな性質を父から受け継いでいた僕は、苦悩することに惹かれ、意味もなく絶望し、勘違いソングを量産していた。それは音楽の追求とはかけ離れていたし、表現ともまた違っていた。


高校を卒業して上京すると数多くの音楽に出会った。音を体験すればするほど耳は肥えてゆくが僕はそれを僕の音楽に還元することができなかった。4年間、引きこもるように曲を書いた。というよりも、あれは才能という幻想に取り憑かれていただけだった。毎日が苦痛で、22歳の夏に、音楽をやめた。


いま、友人たちの創り出す音に体を委ねるとき、心地良いほどに気づかされることがある。僕は音に愛されなかったのではなく、僕が音を愛していなかったのだ、と。

 

 

 

小学生の頃、僕は相棒と呼べるような友人がいた。彼は優しく、何をするにもどこに行くにもいつも一緒だった。


小学6年生の夏休みのある日。僕らは下級生2人を連れて隣町まで遊びに行くことにした。

自転車で行くには遠すぎたのでバスを使うことにした。当時、僕は何かの影響でエアガンにハマっていた。駄菓子を買いこんでは小さな町を駆けずりまわり戦争ごっこをして遊んだ。やがて夕方になり僕らは町へ戻る。


バスから降りると、川を挟んだ向こう側に小学校があり、同級生や下級生が集まって遊んでいるのが見えた。彼らはこちらに向ってなにか笑いながら叫んでいた。僕が「おーい!」と手をあげると、向こうから小石が飛んできた。よく聞くと「バーカ!バーカ!」と笑いながら小石を投げている。

僕はショックを受け、傷つき、僕が嫌われていることを相棒に悟られまいと強がっていたものの、頭の中は真っ白になっていた。だから、その後のことはあまり覚えていないが、そそくさと解散したように思う。


夏休みが終わると、相棒は僕を学校の階段の踊り場に呼び出した。「どうしたの?」と尋ねると、「おれ、たけちゃんとこいくね」と小さな声で呟いた。僕は「うん」とだけしか言えなかった。

引き止めることはできない。相棒だと思っていた彼は、押しの強い僕に言い負かされて一緒にいただけだったのまから。


僕らは対等ではなかった。僕が親分で彼が子分だった。そして、それは、僕が決めたルールだった。

 

 

 

父はとても酒が好きな男だ。僕が小・中学生の頃には、休みの度に母と、酔いつぶれた父を迎えにいったものだった。時には泣きわめいたり、怒り出したり、暴力こそなかったけども、子供の僕からしたらとても憂鬱なものだった。


僕が高校2年になった年の5月、ゴールデンウイークの真ん中くらいだったと思う。僕は前日から友人宅に泊まりに行っていて、お昼頃家に戻った。父がいなかったので母に聞くと近所に呑みにいっているとのこと。嫌な予感がしたのを覚えている。


しばらくすると遠くから叫び声が聞こえた。

窓をのぞくと近所の家から父が叫びながらこちらへ走ってきていて、その後ろを友人が追いかけている。母と僕とで慌てて外に出て、父の元へ向かう。友人はわけがわからないといった様子で、とにかく謝っていた。母は友人を家に帰し父に話を聞く。父は裸足で子供のように泣きじゃくっていた。発言は支離滅裂で、とにかくもう死んでしまいたいのだという。疲れたのだと。母も弟も祖母も泣いていた。母は「子供の前で情けない」と平手打ちをし、祖母は「死ぬならわたしを殺してから死ね」と険しい顔をしていた。

僕は〝お父さんは死ぬ気なんてない 僕らの愛を測りにかけているだけだ〟と父の弱さを眺めていた。だけどそれを口にするほどの勇気はなく、父が望んだ通りどれほど僕たち家族には父が必要で、どれほど愛してるのかを説明した。懸命な説得の甲斐あって、2時間ほどで父も落ち着きを取り戻しみんなにも笑顔がこぼれた。


いまでは笑い話。遠い昔の話。


だけど、あのときの父の弱さを、僕の中にみつけるとき、胸の奥で言いも表せぬ不安がざわざわと音をたてる。