2017/10/28

先日、帰省した際、生まれ育った村に寄った。
家はもう誰も住んでいない。
祖母が亡くなってからは、父が農作業したり、村の行事に参加した際に泊まるとき使っているだけなので生活感は薄れ、ずいぶんと当時の面影はなくなっている。
それでも、父のカラオケマイクやスピーカー、カセットテープ、黄緑色の電話、風邪をひいたとき卵スープ用に使っていたマグカップ、祖母の黄色の櫛、予定を書き込んでいた小さな黒板、母が使っていた化粧台、磨硝子の模様、風呂場のタイル、懐かしさを感じることができる。
ただ、生家にはちょこちょこ立ち寄っていた。今回、ぼくは村を散歩したいと思っていた。ぐるっと一周するのは25年ぶりくらいだろうか。

ぼくの家は村の東にあった。坂道の丁度真ん中くらい。とりあえず坂道を登っていくことにした。民家があった場所は平地になり、それはつまり住んでいた人が亡くなったということで、主人をなくした田畑も草木が生い茂り、荒地と化していた。そういうと聞こえが悪いけども、ただ山に戻っていくということ。
かと思えば、都会からの移住者が暮らす小洒落た古民家が建築されていたり、シェアハウスが出来て若者が生活していたりと、ぼくが懐しむことのできる村は想像していたよりも限られていた。
村のてっぺんにある墓地近くの池と、ガードレール代わりになっている石のブロック。そして、お社さま。
特に石のブロックはそこに登ってよく遊んでいたのに、存在すら忘れていたので懐かしかった。お社さまは、湿った苔だらけの階段を登っている途中で、夢によく出てくる階段だと気がつきハッとした。子供の頃、カブト虫を採った杉の木は想像よりも高く、野球をして遊んだ境内は狭く感じた。

改めて感じたのは、視覚から懐かしさを感じることは少なくて、むしろ、蜂が通り過ぎてゆく音や、田んぼのあぜ道を通ると香る土の匂い、砂利を踏む足の裏から伝わる感触、、そこにいるからこそ感じられる空気が、当時の記憶を呼び起こしてくれた。

4時間ほどふらふらと歩き回り生家に戻った。
窓から昔ぼくの部屋があった場所(雪下ろしができないと雪が積もって潰れてしまう屋根だったので取り壊した)を眺めると、父が籾殻を燃やしていた。その近くに栗の木が生えている。前回ここに立ち寄ったとき、久しぶりにその栗の木をみて高校時代に恋していた〝当時の感情〟を思い出したことを思い出した。今回はもう〝当時の感情〟を思い出すことはなかった。懐しむことはむずかしい。

夜、父と母にその日のことをすこし話した。「懐かしんだってどうしようもないのにねえ。」と、ぼくがいうと「なーして?あーあんなことあったっけなあって懐しめりゃーいやーな(どうして?あんなことあったなあって懐しむだけでいいじゃない)」と母が笑った。それはそうだなと、ぼくも笑った。